学級日誌を書きながらこう考えた。 智に働けば空回り。情に棹させば揺れ惑う。意地を通せば厄介だ。兎角に恋愛は難しい。 頬杖を付いて文豪を気取ってみる。ふと窓の外に目を向けると、太陽の赤と夜の青が混じり合って、美しい紫が生まれていた。思わず息を呑む。泣きたいくらい綺麗な空だ。 教室には誰も居ない。ふう、とため息をついて、私は再び学級日誌に意識を戻した。今日の出来事?そうだ。今夜、留学生の歓迎行事の一環としてダンスパーティーがある。男の子も女の子も1ヶ月前からみんなどきどきそわそわで、誰を誘うだの誰に誘われただので色めき立っていた。 私も・・・正直、ちょっと楽しみにしていたが、1週間前に担任の先生に呼び出され、「君は通訳やってくれないか。頼む!」と悲痛な顔で頭を下げられた。ちょっと残念な気もしたけれど、幼い頃イギリスに住んでいた私にこの役目が回ってくるのは当然だろう。 それに、みんなが持っているような素敵なドレスは庶民の私に似合わない。イギリスに居たのだって、単にお父さんの仕事の都合だ。「家計がぁぁぁ!」と頭を抱えたお母さんに、「向こうでアフタヌーンティーは控えような」とお父さんがズレた事を言って「水道水で十分よ!硬水に慣れなさい!」とスリッパで叩かれていたのをはっきり覚えている。それを見て私が笑ったことも。 お金は余りないけれど笑顔の絶えない家庭で育つという漫画でありがちな設定のこの私がこの私立帝光中学校に入学したのは、ひとえに奨学制度の充実に他ならない。成績さえ良ければ公立高校よりも安くなる費用に私は食いついた。必死で必死で勉強して、入試で1番を取ったとき、私は思わず泣きそうになった。 だからこそ、入学式で堂々と新入生代表挨拶を読み上げる彼に、私はぽかんと口を開けたのだ。 私と同じ点数がもうひとり。驚きと同時に、少しの親近感もわいた。どんな人だろう。仲良くなれるかな。 そうしてめでたく同じ1組、別称「特別進学クラス」になった彼に、私はまんまと惚れたのだ。 柔らかな物腰と深い知識。最初は「かっこいいなあ」「話が合うなあ」くらいの認識だったのに、授業中の真剣なまなざしやふとした時に見せる憂いのある横顔を眺めているうちに、いつの間にか心臓がおかしな音を立てるようになった。 2年生になると胸の痛みは更に激化した。彼がバスケをしている姿を見てしまったからだ。 新しく入部したという黄瀬君のファンの友達に半ば強引に連れて行かれた体育館で、私は彼に釘付けになった。 「うわ、かっこいい・・・」 思わず呟いてしまった言葉は幸い誰にも聞かれる事はなかったけれど、何故だか頬が火照った。 的確なパス。完璧なゲームメイク。コートの中だけでなく、赤が閃く度に歓声が上がる体育館そのものが彼の支配下のようだ。 彼が点を入れた瞬間、目が合った、気がした。微笑まれた、気がした。 好きになった。気がした、じゃない。ほんとのほんとに好きになった。 試合終了の笛が鳴る前に、私は逃げるように体育館を後にした。これ以上は心臓がもたない。 そうして、横顔を見るだけでも内心ドキドキしちゃうような日々が今に至っている。 「っと・・・」 物思いにふけっているうちに、外はすっかり暗くなっていた。少し乱れた字で日誌を書き終え、私は勢いよく立ち上がった。パーティーまであと1時間。友達にヘアメイクを頼まれている。 先生に日誌を渡してから女子更衣室に向かうと、級友たちに「遅いよ〜」と笑顔で迎えられた。 「ごめんごめん。日誌書くのに手間取っちゃって」 「そっか。今日日直だったもんね。忙しいところごめんね。お願いします」 椅子に座る彼女たちは皆美しいドレスに身を纏っていた。「そのドレス似合うね」と褒めると、「当たり前でしょ。特注なんだから」と返される。うん、次元が違う。 「あんたは通訳だもんね。頑張ってね」 「ありがとう」 手早く5人程髪を整えると、満足げに自分の姿を鏡で確認する友人たち。 「そういえば、バスケ部のレギュラーって誰と行くか知ってる?」 ひとしきり準備が整った後で持ち出された他愛ない噂話に、私はぴくりと反応した。赤司君を通じて、キセキの世代とは大分仲良くなった。皆それぞれ個性があって素敵な人ばっかりだ。 「知らないなあ・・・緑間君は通訳って聞いたけど」 「青峰君はさつきちゃんとかな」 「黄瀬君はすっごい可愛い女の子連れてきそう!」 「紫原君は女の子よりお菓子かもね」 「赤司君なんてもう婚約者いそうじゃない?」 楽しそうに話す彼女たちに笑顔で合わせながら、私は心の中でこっそりため息をついた。 だよね。あれほどの良家の息子さんなんだから、婚約者がいてもおかしくない。 好きになるのすら、身の程知らずだったかな。 時間になり、豪奢なドレスに身を纏った友人たちはわらわらと更衣室から出て行った。自分の制服を見て少し切なくなりながら、みんなが楽しめますように、と願った。 自分には自分のなすべき事がある。身分相応という言葉を心に刻まなくては。 私は私なりに、ダンスパーティーを楽しもう。 彼女たちから少し遅れて体育館に向かう。シャンデリアなんか釣り下げちゃってるいつもと全く違うその空間は、熱気と楽しそうな声と美味しそうな食べ物と上品な音楽で満ちていた。 「Hey! Can I do for you?」 困り顔の留学生に笑顔で話しかけ、私のダンスパーティーが始まった。 「あ、緑間君だ」 1時間ほど経ち、少し疲れてきたかな、と思える頃、私は人混みの向こうに緑色の髪を見つけた。彼はタイミング良く振り向いて私の姿を認めると、少しだけ目を丸くした。その大きな身体を生かし、私に近づいてくる。 「お疲れ様。お互い大変な役回りだね」 「英語の成績を認められてこその仕事なのだよ。むしろ誇りに思うべきだ・・・」 緑間君はそこで言葉を切り、心底真面目な顔で私に尋ねた。 「ところで赤司はどうした?」 「はあぁ!?知らないよそんなの!パーティー始まってから今まで見かけてないし。何で私にそんな事を」 「いや・・・おまえはてっきり赤司に誘われたものだと」 「私!通訳!I’m translator! Are you OK?」 「All right なのだよ」 緑間君は流暢な発音で答えてくれた。意思の疎通は可能のようだ。 「だが、通訳だからといってパートナーを持ってはいけないという事はないだろう。現に、隣のクラスの女子は先程制服から着替えてパーティーを楽しんでいるのだよ」 「へぇ・・・」 私は少し俯いた。それ先に言ってよ先生。私だって一応何人かに誘われてたのに全部断ったんだからね!まあ、通訳だろうとなかろうと断ってはいただろうけど。 「どっちにしろ、赤司君には誘われてないよ。てか、赤司君ならわざわざ誰か誘わなくてもよりどりみどりでしょ。他のクラスの女の子とかもいっぱい来て、うちのクラス大変だったんだから」 隣の席の私は、昼休み、赤司君にパーティーのお相手を求める女の子達に「そこ邪魔!」などと叫ばれ大変迷惑したものだ。だから最近は教室ではなく屋上でお弁当を食べていた。 「そうか。それもそうだな」 緑間君は納得したようにふむふむと頷いた。 「では俺は行く。精々頑張るのだよ」 「分かりましたよーだ」 遠ざかっていく広い背中にあっかんべーをして、私は再び通訳の仕事に戻った。 だから気づかなかった。緑間君がポケットから携帯電話を取り出したことに。 それにしても赤司君の姿が見当たらない。この場にいれば確実に気づくのに。生徒会長たる彼がこのような行事に参加していないはずがない。 「あ、いたいた!」 疑問に思いながらも、背後からかけられた明るい声に振り返った。 「あら、黄瀬君。楽しんでる?」 「そこそこっスね」 素敵なタキシードに身を包んだ黄瀬君は、バチッと音がするようなウインクを決めた。私の後にいた女の子たちが「ああん黄瀬君」とか言ってへたり込んだのが分かったが、知らないふりをしておこう。 「それは良かった。じゃあね」 「うん、それじゃあ・・・ってちょっと待って!大事な話があるんスから!」 背を向けた私の手首を黄瀬君が掴んだ。月9か 私は彼に向き合い、大げさな泣き真似をしてみせた。 「ご、ごめんなさい・・・あなたとは付き合えないの・・・」 「大事な話ってそういう事じゃないっスよ!分かっててやってるっスよね!それにもう赤司っちがいるじゃボグァごめんなさい!ごめんなさい!顔はやめて!」 「腕、つねっただけだけど」 「まあとりあえずこっち来てくださいっス!」 抵抗する私など歯牙にもかけず、黄瀬君は私を体育館から連れ出した。というか、いつまでへたり込んでいるんだそこの女子たちは。 「へ?ここ・・・女子更衣室だよね?」 「そうっスよ。でも今は誰もいないから、使っちゃえってことで」 黄瀬君はにこりと笑うと、更衣室の扉をノックした。 「はいはーい」 明るい声が中から響き、がらりと扉が開けられた。 「待ってたよ〜」 「へ?さつきちゃん?」 桃色の髪に、私は少し動揺した。 「俺たちもいるよ〜」 間延びした声に誘われて中に入ると、 「紫原君!青峰君!黒子君も!」 主将を除くバスケ部レギュラーの勢揃いに、私は口をぽかんと開けた。 「てか緑間君まで何でいるのよ。通訳の仕事は?」 「今は休憩なのだよ」 さらりと言った彼は、眼鏡のブリッジを指でくいっと押し上げた。よく言うよ。 制服の緑間君を除けば、皆、タキシードやドレスに身を包んでいる。かっこいいなあ。かわいいなあ、と思わず見とれた私は、この状況を思い出しふっと我に返った。 「で、どういうこと?」 事態が飲み込めていない私に、さつきちゃんが優しく言った。 「さっき連絡があってね、赤司君は生徒会の仕事を終わらせてからダンスパーティーに参加するんだって」 「は、はあ・・・」 「それまでに支度を整えておけって」 「誰の?」 6人の指が、一斉に私を指さした。 「は、はあああ!?」 「おい、うるせーよ」 青峰君が眉をひそめた。 「待って待って!何で私が赤司くんと!?わっかんないよ!」 「落ち着けって」 「そもそも私ドレスなんか持ってない!仕事もあるしなんかその行くこと前提な口調がすっごい腹立つ!」 「満更でもないくせに」 にやりと笑った青峰君にとっさに言い返す事ができず、とりあえず頭をスパコーンと叩いておいた。 「それに、ドレスは心配ないっスよ」 黄瀬君が私の肩にぽんと手を置く。 「もう用意したっス。俺のマネージャーに電話して聞いたら、ちょうどいいのが見つかって。モデルさんが1回着ちゃってるけど、もちろんクリーニングには出してあるし、それで良ければ・・・」 うわあああと私は悶えた。とんとん拍子に進む話は夢みたいで、心が追いつかない。 「いいっスよね?じゃ、決定で」 勝手に話を切り上げた黄瀬君は、「着替えとヘアメイクは桃っちに手伝って貰うっスよ〜」と言いながら立ち上がった。 「ほら、他のみんなも、男共はいったん出てった!出てった!」 さつきちゃんに追い立てられ次々と立ち上がるみんなに、「で、何で全員集合?」と尋ねると、黒子君が透き通るようないい笑顔でこちらを向いた。 「僕たちは野次馬です」 「これがそのドレスだよ」 「はあ・・・はあっ!?」 私たちの目の前に広げられているのは、純白の美しいとしか言い様のないドレスだった。贅沢なフリル使いにたっぷりとした袖。背中には大きなリボンが付いている。ちゃんと靴や手袋などの小物も一式揃っている。私とは余りに相容れないかわいいもの。これはお姫様が着るものだ。 「こ、これは着れないよ・・・」 声が震えた。何故だか泣きそうだった。 「着てあげてよ。赤司君からメールが来てから、ミドリンがすぐきーちゃんに連絡したの。きーちゃんはさっきあっさり『ちょうどいいのが見つかった』なんて言ってたけど、短い時間でいろんな所に一生懸命電話して探してたよ。『どうせなら俺から見ても最高に似合ってめちゃくちゃ可愛いドレスを着せたい』って言ってね。モデルさんの見立てに間違いはない!自信を持って着てあげて」 「で、でも仕事もあるし・・・」 「ミドリンが先生に連絡してるから大丈夫。楽しんで来いって伝えろって言われたらしいよ」 さつきちゃんは微笑んだ。 「いっつも頑張っている人に、これくらいのご褒美があってもいいと思わない?」 「・・・・・・」 「着ない理由、他にもある?」 「ないです・・・」 観念し、私は制服に手をかけた。 10分後、私は全身鏡の前で目を丸くしていた。 「似合う!すごいよ!お姫様みたい!とっても綺麗!」 私よりもテンションが上がったさつきちゃんは、「ヘアメイクも頑張るね!」と腕まくりした。馬子にも衣装ってこのことだなと実感しながら、椅子に座る。 「・・・赤司君も自分で誘えばいいのに。こんな遠回しなことして」 「へ?」 「ううん、こっちの話」 その時、どんどんとノックの音が聞こえた。 「おい、おせーよさつき。いつまで待たせる気だよ」 「あ、ごめん。もう入っていいよ」 わらわらと入って来たキセキの世代たちは、私を見ると動きを止めた。 「ご、ごめんね!やっぱり・・・似合ってない、よね」 わざとらしくあははと笑ってみたけれど、彼らの反応はない。せっかくこのドレスを選んでくれた黄瀬君にも申し訳が立たなくて、私は下を向いた。でも、 「・・・何言ってんの。見違えたよ。すっごい可愛いじゃん。食べちゃいたいくらいだし」 紫原くんがしげしげと私に近寄り、裾のレースにそっと触れた。 「思わず見とれてしまいました。綺麗です」 黒子君はにこりと笑った。 「ほら、やっぱり俺の見立てに間違いはないっス!」 胸を張る黄瀬君に、「黙れ」とアイアンクローをかます青峰君。 やたらと眼鏡のブリッジを押し上げている緑間君は、目が合うとそっぽを向いた。 「・・・ほんと?」 「もちろん!めちゃめちゃ可愛いっスよ」 アイアンクローをかけられながら必死で答えてくれる黄瀬君に「ありがとう」と笑いかける。 「みんなも・・・本当にありがとう」 「俺、何もしてないけど〜」 「僕もです」 「あ、俺も。てかいい加減降参しやがれ黄瀬」 ただの野次馬だから、と笑った黒子君と紫原君と青峰君も、みんなあったかい。 「ここまでお膳立てしたんだから、ちゃんと上手くいってよね」 ヘアメイクを終えたさつきちゃんが、私の肩にそっと触れた。 「ほら、いってらっしゃい。お姫様」 くすぐったい言葉に照れて唇を噛みしめると、「せっかくのグロスが落ちちゃうよ」と注意された。 「あ、赤司からもう来ているとのメールが」 「ええ!どこ?」 「体育館前だ。急ぐのだよ!」 緑間君の言葉に頷き、私は「みんなありがとう!」と叫んで更衣室を飛び出した。髪型が崩れないように注意しながら、走る、走る。 すれ違う人たちが目を丸くして私を見送った。知ったことか。私の目が探すのはたった1人だ。 「赤司君!」 やっと見つけた。 赤い髪が真っ黒のタキシードによく映えていて、とても美しい。女の子達に声をかけられている彼の元に駆け寄ると、「待っていたよ」と微笑んだ。 「あ、この人は・・・」 「俺のパートナーなんだ」 それを聞いた女の子達がすごすごと体育館へと消えると、赤司君は私をしげしげと見つめた。 「とても綺麗だ」 てらいのない言葉に、顔が熱くなる。 「じゃあ、行こうか」 当たり前のように私の手を取り、彼は堂々と体育館へ足を踏み出した。 「赤司征十郎のパートナー」として好奇や嫉妬の視線にさらされながら、飲み物を飲み、食べ物を食べ、そして踊った時間を私は一生忘れない。なぜ彼が当然のように私と一緒に居るのか、なんて考えても仕方がない。大方彼の気まぐれだ。それでも、この時間を共有したという事実は消えない。ドレスを脱いだら解ける魔法。どうせ解けるのなら、それまで楽しまなくては損だ。 だから「今日は楽しかったよ、ありがとう」と言われたとき、私は「こちらこそ」と微笑んだ。彼の目に映る今日の私は、最後まで美しくありたい。 「通訳の仕事も大変だっただろう」 「うーん・・・でも頑張れば大丈夫だったよ」 「君は何でもそう言うね」 「そうかな?」 つらつらと流れる会話は、体育館から近い教材室の中で行われている。少々人に酔ってしまった私を赤司君が気遣って誰も居ない所に連れて行ってくれたのだ。 「ここに入学した時のことを覚えているかい?後で驚いたよ。俺と同じ点数で首位入学した人間がいると聞いて」 「私も。入学式の時、赤司君を見てこの人が私と同じ点数だったんだってちょっと嬉しくなった」 「それから君と同じクラスになって、俺が『塾にも通わずどうやって勉強していたんだい?』って聞いたときも君は言ったじゃないか。『頑張ったら何とかなった』って」 「そうだったかな。よく覚えていないや」 「君は何でも頑張るね。なのに・・・」 赤司君はそこで言葉を切り、私をじっと見つめた。 「いつまで経っても、どれだけ仲良くなっても、俺の気持ちに気づこうとしてくれない」 横顔を眺めることができる。話をすることができる。それで充分だと思っていた。 「・・・・・・」 「いい加減待ちくたびれてしまったよ。俺はずっとずっと君に惚れている。こんなに綺麗な君を、他の男に渡したくない」 上手く息ができない。一方通行だと思っていた。それなのに、そんな、 「好きだ。君が、好きだ」 振り絞るように言った赤司君は、乱暴に私を引き寄せ、優しく抱きしめた。 彼は返事を求めてはいなかったから、ただ黙って温もりを噛みしめる。嘘みたいなほんとの夜に、月が笑った。 そっと身体を離し、どちらからともなく微笑み合う。 「ねえ、赤司君」 「何だい?」 「月が、とっても綺麗だね」 これが私なりに精一杯頑張った結果だ。彼ならきっと分かってくれる。 案の定、赤司君は私の耳元に口を寄せ囁いた。 「よくできました」 置き土産に頬に落とされた熱。それはドレスを脱いでも消えない魔法の証だ。 |