距離の詰め方さえ分からずに、彷徨う睫毛に恋を乗せるようにしてマスカラを足していく。少しだけ伸びた睫毛から見える世界は、煌めきで彩られていた。ほろほろと零れる春の陽のように、あたたかで柔らかい。胸に広がる甘酸っぱい想いは止まることを知らない。恋は、人を変える魔法のようだ。仕上げにくちびるにリップグロスを乗せると、艶々と薄桃色に甘い夢を見る。擦り合わせるようにして軽くくちびる同士を重ね合わせると、今日一日のはじまりの合図だ。 「あっ、グロス変えた?」 いつもの通学路さえ違う世界に見えてしまうのだから恋とは恐ろしい。見慣れた景色を歩みながら、私は今日も彼に会えるのかと想うと嬉しさでだらしなく頬は緩んでしまう。 バスを降りると、偶然友人が通り掛かった。手を振って近付いて来た友人は、おはようと挨拶を交わすと二言目にはそんなことを言った。 「え、分かる…?うん、変えたんだ!」 以前まで使用していたお気に入りのリップグロスを使い終え、私は新しく店頭で一目惚れしたリップグロスに変えたのだった。みずみずしく艶やかに彩り、滑らかな口元を演出してくれるリップグロスが私は大好きだった。潤いが持続するパール感がなんとも心を躍らせる。以前はリップクリームを付けるだけのくちびるだったのに、こうして可愛くなりたい、と強く思ってしまうのだから恋の威力とは凄い。 「なんか最近、キラキラしてるよねぇ〜。なに、好きな人でも出来た?」 不意の友人の言葉に狼狽の色を隠すのに必死だった。咄嗟に否定の言葉を返すと、友人はなんだぁとそれ以上追及はしてこなかった。小さく溜息を吐くと、癖のようにくちびるを擦り合わせる。 友人のことを信用していない、というわけではなかった。ただ単に、恥ずかしいだけだった。誰にも打ち明けていない密やかな恋心は日々密度を増していく。誰かに想いを打ち明けたら、きっと、今以上に想いを止めることが出来なくなるだろうから私は恐れていたのだ。 教室に辿り着くと、一番最初に彼の姿が映った。それだけでどきり、と容易く胸は高鳴る。それを必死に隠すようにして、大きく一度深呼吸をした。 「おはよう、緑間君」 「ああ、おはよう」 表情ひとつ変えない彼だけれども、こうして彼とおはよう、と挨拶を交わすだけで、堪らなく幸せに包まれる。たった一言なのに、それだけでも心は躍る。制服のスカートを握り締めながら、ひとり喜びに浸る。彼の隣の席に座ると、恐らく今日のラッキーアイテムであろう洗濯ばさみを机の上に置いていた。あまりにもシュールな光景に思わず吹き出してしまいそうになるが、至って彼は真面目なのだから必死に笑いを堪えた。 隣の席に座る、緑間真太郎君のことを好きになったきっかけは、意外と単純であった。きっと、恋のはじまりに理由なんていらないのだろう。気付けば彼のことばかりを考えてしまうようになっていた。 元々、緑間君とは一言も会話したことがなかった。彼は一年生にして強豪校のエースであったり、毎日律儀におかしなラッキーアイテムを持ち歩いていたり、その目立つ容姿であったり、登下校にへんてこな乗り物に乗っていたりと、様々な面から校内の有名人であった。変人、という言葉でさえ足りない程に彼は非常に変わった人であった。 彼とはまるで真逆に位置するのが、同じクラスである高尾和成であった。彼はクラスのムードメイカー的存在であり、男女分け隔てなく接する気さくな人だった。けれども、そんな高尾君が一番親しい人が緑間君だというのだから驚きである。同じ部活だからといってしまえばそれまでだが、正反対といっても過言ではないふたりが一緒にいる光景は今や見慣れてしまったが、最初は違和感しかなかった。 席替えをして、隣が緑間君になった時は正直少しだけ戸惑ってしまった。机の上にはラッキーアイテムであろう植木鉢が置いてあり、本人は至って真面目な顔をしているものだから、あまりにもその光景が滑稽に映った。宜しくね、と声を掛けるタイミングを失ったまま、緑間君と会話をすることはなかった。 毎朝教室に入ると、今日のラッキーアイテムはなんであるのか、こっそりと盗み見るのが癖になっていた。最初は面白半分であったが、数日も経てば当たり前の光景になっていた。相変わらず、おはようと彼に声を掛けることは出来ないでいた。 そんな日々が続いていたある日。たまたま通り掛かった数学の担当教師に雑用を押し付けられ、私は両手いっぱいにクラス全員のノートを抱えていた。重たい上に上手に身動きが取れずに最悪な状態であった。更に階段を上らなければならないのが非常に厄介で、必死にノートを落とさないように階段を上ろうとした時だった。 「貸せ。半分持ってやるのだよ」 背後から突然そう言われ、私は吃驚して思わず声を上げてしまった。慌てて声のした方を振り返ると、そこには緑間君の姿があった。初めて至近距離で彼の姿を見たが、視線を交わらせるには大分上の方を向かなければならなかった。やっぱり大きいなあ、と思ったのと同時に、近くで見ると一層綺麗な顔立ちをしていることに思わず息を呑んだ。 「あ、ごめん。ありがとう…!」 戸惑いながらも、お言葉に甘えてノートを半分緑間君に渡した。まさか、こうして緑間君が手伝ってくれるとは思わず、私は未だに驚きを隠せなかった。それよりも、一度も話したことが無かったけれども私のこと、知っててくれたんだ。確かに同じクラスメイトであるが、緑間君がクラス全員の顔と名前を一致しているようには思えないという勝手なイメージがあった。 半分になったノートは軽かった。半分、いや。半分持ってやると言った割には、半分以上は持ってくれていた。手伝ってくれたことは勿論、初めて緑間君と会話出来たことに、忽ち私の胸は喜びでいっぱいになった。私の心が淡い気持ちで満たされるのにそう時間は掛からなかった。 ノートを持ってくれた次の日、私は勇気を出しておはよう、と緑間君に挨拶をしてみた。たった一言なのに、その言葉を発するのにどきどき、と鳴り響く心臓の音がやけにうるさかった。緑間君は少しだけ驚いたような表情を見せると、滑らかな声色でおはよう、と返してくれた。ただそれだけで、嬉しさに心は躍る。 その日から毎朝、緑間君におはようと言うのが私の密かな日課になっていた。そして段々と慣れてくると、机の上に置かれているラッキーアイテムについて触れたりもしてみた。緑間君は相変わらずの仏頂面で淡々とラッキーアイテムについて少しだけ口を開くだけで、けれどもそれでさえも私は嬉しかった。 きっとこの気持ちは。最初は気付かない振りをしていた。日々密度を増していくこの気持ちに気付いてしまったら、止めることは出来ないだろうから。私はそれを怖れて気付かない振りをしていた。それに、こうして少しの会話さえも嬉しいのに、もっとと欲張りになってしまったとしたら。 けれども、そんなに器用にはなれなくて。強い瞳を演じていた双眸は、いつしか彼の姿ばかりを追い掛けるようになっていた。女の子と接することが珍しい彼が、たまにクラスの女の子と一言二言交わしているのを見るだけで心はぎゅうと悲鳴を上げたように締め付けられた。 ああ、そうか。好き、なんだ。自分の気持ちを認めた瞬間、微炭酸のように淡く弾けていくようだった。緑間君のことが、好きだ。助けてもらった時から、心底では彼のことをもっと知りたいと思うようになっていたんだ。 ぽろぽろと零れていきそうな想いを必死に内側で押さえつけた。告白する勇気なんてなかったから。彼と気持ちを重ね合わせることが出来ればどんなに幸せだろうか。けれども、彼に振り向いてもらう自信も最初からなくて、なによりも彼の一番はきっとバスケだろうから、恋愛なんてしている余裕はないように見えた。迷惑になるだけだろうから、私はそっと密かに彼のことを想い続けていた。 「よし、席替えすんぞー」 まるでその言葉が死刑宣告のように聴こえた。一気に絶望感に襲われる。折角隣の席になれたのに。無情にもくじ引きは滞りなく行われた。クラスメイトたちは皆、新しい席に期待を抱くばかりで盛り上がっていたけれど、私は隙間風のような寂しさが心を掠めた。隣に座っている緑間君の姿を盗み見ると、彼は座席を移動する準備をしていた。嫌だ、この席が良いのに。 どうかまた、緑間君と席が近くなれますように。私は心の中で強く願った。 けれども、そうそう奇跡というのは起こらないもので、無情にも私と緑間君の席は離れてしまった。席を移動する際、緑間君に何か声を掛けたかったけれども、適切な言葉が思い浮かばずに何も伝えられなかった。新しい席は一番後ろの席で、本来ならば最高の席のはずなのに、ちっとも嬉しくなかった。 乾いたくちびるにリップグロスを乗せた。気分は沈んだままだった。こんなに席が離れてしまっては、明日から「おはよう」と挨拶を交わすのは難しいかもしれない。わざわざ緑間君の席に行ってまで「おはよう」という勇気は私にはなかった。 翌朝、教室に入るのが酷く億劫だった。昨日までなら、学校に行くのが楽しみだったのに。席が離れてしまっては挨拶を交わすことも難しい。緑間君はいつも大人しく席に座っているから、私が行動を起こさなければならなかった。重たく感じる扉を開けると、癖で今までの席に行きそうになってしまった。もう、緑間君の隣の席ではないんだ。 ちらりと緑間君の席を盗み見ると、相変らず姿勢よく座っていた。机にはいつものラッキーアイテム…が置いていなかった。初めてのことだった。一体どうしたのだろうか、もしかして今日のラッキーアイテムは身に着けるものなのかもしれない。少しだけ不思議に思いながらも席に着くと、不意に緑間君が振り返った。突然のことに私の胸はどきりと変な音を立てる。目が合ったような気がして、私の頬は一気に紅潮する。恥ずかしい、と慌てて俯いた。 「」 「…えっ?」 その声が耳の奥まで鮮明に届いた。名前を呼ばれるだけで、どうしてこんなにも苦しいのだろう。私は驚きに目を見開きながら声のした方を向いた。そこに立っている彼の姿に心がスパークリングする。まさか彼が私に話し掛けてくれるだなんて。どき、どき、どき、と心臓の音が酷くうるさい。頭の中がパニックになって、私はえ?…っと?とぎこちなく言葉を返すことしか出来なかった。 「今日のラッキーアイテム。リップグロスなのだよ」 「え?」 「、いつも使っていただろう。今日だけ貸して欲しいのだよ」 私の心臓は既にパンク寸前だ。まさか、緑間君がいつも見ていてくれただなんて。水のように喜びが湧き上がる。頬の紅潮を隠すことも出来ず、私は緑間君にリップグロスを渡した。緑間君の大きな掌に、あまりにも不似合なお気に入りのリップグロスが乗せられた。どうしよう、凄く嬉しい。振り向いてもらいたいだとか、彼女になりたいだとか、1パーセントも思っていないと言ったら嘘になるけれど、彼のために可愛くなりたい、と思って付け始めたリップグロスだったから。それを彼に見てもらえていたのが凄く嬉しかった。 緑間君が席から離れて行った後、私は暫く余韻に浸っていた。ふわふわと、優しい微風に包まれたようだ。頬が緩みそうになるのを必死で堪えていると、背後から「おはよう」と声を掛けられた。慌てて後ろを振り返ると、そこにはいたずらな笑みを浮かべた高尾君がいた。 「リップグロスなんてさ、簡単に妹ちゃんから借りられるのにね」 そう言って高尾君は意味深に私に笑い掛けると席に着いた。瞬間、ぎゅう、と胸が締め付けられた。 ねぇ、ちょっとだけ、自惚れちゃっても良いのかな? 薄桃色のくちびるが、艶々と光り輝き甘い夢を見る。いつか、君に好きだと伝える日が来ればいいな。 ![]() :愛の綴りを教えて
July 15, 2014
|