―――先輩が、また優しくなった気がする。 爽やかだったり甘ったるかったり、ありとあらゆる制汗剤のにおいが何種類も混ざりまくって、言葉では言い表せないくらい危うい何かが充満した部室だけれど、ここは年中変わらず部員たちの大切な楽園だった。入部当初は怖い先輩たちにびびりまくっていたせいであまり寄り付きたくないと思っていたけれど、いつの間にかここが最高に居心地がよい場所になった。それはいつからだろう。いくら記憶の断片を探しても、はっきりとしたことは分からない。それくらい自然なことだったのだ。時間というのは本当に偉大だ。凝り固まった悪いものをまるごと溶かしてくれるのは、いつだって時間以外にない。……でも、残念なことにその”時間”という薬も万能ではないらしい。わたしがそのことを知ったのは、ほんの、最近のことだ。 今朝見た部屋のカレンダーを思い返す。あれからもう半月ほどが過ぎた。あの日確かに例の一件は起こったはずなのに、それでもわたしたちの毎日は一見何の変化もないまま今この瞬間も着々と過ぎている。まるで、セーブポイントで記録したデータをイベント失敗後に平然と読み込んだ後のようだ。そんな毎日は、ぶっちゃけ少し虚しい。 楽園では、今日の部活のことや授業のこと、明日あるクラスマッチのこと、恋愛の悩みなど、わたしには把握できないくらい様々な話が飛び交っている。部長が一応明日の練習メニューの説明をしているけれど、友人たちとのおしゃべりに夢中になっているみんなの耳には一切入っていない。…まあ、かく言うわたしも、その内容をほとんど受け止め切れていないのだけれど。説明がひととおり終わり、「ちょっとみんな聞いてたー!?」という高い声が部室に響き始めると、わたしは慌ただしく荷物をまとめて一目散に部室を飛び出した。…少しだけ、後ろ髪を引かれながら。 外に出ると随分涼しかった。この時間になってしまえば、正門前も茜色に染まった人影はまばらだ。いつもここで待ち合わせをするわたしたちにとっては好都合。きょろきょろするわたしをきっと向こうが見つけてくれる。 「、こっち」 やっぱり。笑みをこぼしながら、声のした方へゆっくりと目を向ける。 いつものように校門の陰から少し色素の薄い頭を覗かせたと思えば、先輩はあの柔らかな声でもう一度、わたしの名前を呼ぶ。わたしは先輩の手の動きに誘われるように、いつものごとく頬を緩めてそちらへ駆け寄った。 菅原先輩。 もともと優しい人だったけれど、最近それがあまりに行き過ぎているのはきっとわたしの気のせいじゃない。過剰なくらい、あの優しい声が、優しい目元が、わたしをまるで壊れ物のように扱うのだ。丁寧に、慎重に、大切に。 その理由について、わたしには身に覚えがありすぎた。自然と思い出されるのは、やっぱりあの半月前のできごとで。毎日のように身体の奥から沸き上がってくるのは罪悪感ばかりだった。 あのとき、わたしはどうすればよかったのだろう。あれから、この問いの答えについて毎日必ず考えている。今になってもその正解は分からないのに、パニックになっていたあのときのわたしがそれを見つけ出すのは到底無理な話だった。詰まるところ、それだけだったのだ。わたしは、どうすればいいのか分からなかっただけだった。心の準備ができてなくて、馬鹿みたいに緊張して。嫌だったわけじゃない。先輩を拒否したわけじゃないんです。 ……そう、伝えたいのに。意気地なしのわたしがそれをできていないから、先輩はずっと、どうしようもないくらい気を使っている。それは痛いほど分かっていた。 「お疲れ様です。ごめんなさい、結構待ちました?」 「いや、全然。もお疲れ様」 前まで当然のように降って来ていた少し大きな手は、今日もどこかへ行ってしまった。前頭部に寂しさを感じながら、わたしは笑う。それに応えるように、先輩も笑った。 今日こそはちゃんと話をしたいと思う。先輩の笑顔を見て、その決意をいつもより強くした。身長は高い方ではないけれど、我ながらわたしは丈夫だ。それだけが取り柄なのだ。少々ひどくされたって絶対壊れたりしない、ということをちゃんと伝えなければいけない。そうしないといつまで経っても、優しすぎる先輩の腕は決してわたしに触れてはくれない。遠慮がちな優しさは、どうしても居心地が悪くて、何より寂しかった。 できることならもう一度、先輩に近づきたいと思う。欲を言えば、前よりもっともっと近くに行きたい。……実際の距離も、心の距離も。 その気持ちを原動力に、もう歩き始めようとしていた真っ黒な背中に声をかける。 「……あの、先輩」 「ん?どした?」 「えっと、あの、……今日、」 「おー!菅原ー」 ……家に、来ませんか。 残念ながら続きを言うことは叶わなかった。背後からかけられた大きな声に、わたしたちはびくりと肩を揺らす。タイミング悪くそこを通りかかった先輩のお友達に、「相変わらず仲いいな、お前ら」と声をかけられて、わたしたちは揃ってぎこちない照れ笑いを浮かべた。自然な流れでひとことふたこと、とりとめのない言葉を交わすふたりを見ながら、わたしは眩しさに目を細める。きゅう、と胸の奥が縮むのが分かった。わたしは、ほんとうに菅原先輩が好きだ。ずっと好きだ。そんな当たり前のことを思えば思うほど、どうしてだろう、夕日に照らされた先輩の横顔が少し、遠い。 「お待たせ。ごめんな」 「いえ、全然大丈夫ですよ」 「そう言えばさっき、何か言いかけてたよな。なに?」 「あー…あれ、ほんと大したことない話なので気にしないでください」 そう笑って誤魔化すと、先輩は不安げな表情を浮かべた。それでも、わたしはもう一度「忘れてください」と口角を上げる。ごめんなさい、と心の内で何度も謝る。そうする以外、意気地なしのわたしに術はなかった。 「……ん、分かった。じゃあ帰ろっか」 合わせて、先輩も笑う。 以前より少し、わたしを見る眉毛が下がった気がする。困っているような顔だ。そしてどこか悲しそうな顔だ。笑いかけてくれているのは確かなのに、どうしてもそう見えてしまってちくりちくりと胸が痛む。 ……先輩は前からこんな顔だっただろうか。その答えがノーであることくらい、随分前から気づいていた。 帰り道に手を繋がなくなったのも、それからだった。わたしはふと記憶の底をなぞって、見つけた感触を引っ張り出す。その中にあった先輩の手は想像よりずっとごつごつしていて、指も決して細くはなくて。男の人の手をしていた。そのギャップにときめいていたのが随分前のことのようだ。今でもそれは近くにあるはずなのに、そのぬくもりは次第にこちらへ伸びて来なくなった。たまにぶつかったと思ったら、手の甲はすぐ慌てながら離れて行ってしまう。寂しかった。その変化に耐えられなかったわたしは、いつの間にかローファーのつま先ばかり見つめるようになっていた。それが余計に互いの距離を引き離すことは分かっていたけれど、そうでもしないと今にもみっともない泣き顔を晒しそうで。 今日も例外ではなかった。先程の傷が癒えたらちゃんと向き合おうと思うのだけれど、それがいつになるのかはちっとも見通しが立たない。まあ、あと数分ではまず無理だろう。あの決意はきっと明日に持ち越しだ。わたしは小さく息を吐きながら、足元の小石を爪先で小突いた。どうすれば、ふたりの肩に挟まった空間を何かで埋めることができるのだろう。 頭上の電線から、カラスの影が落ちている。薄っぺらい会話を飽きもせず重ねながら、わたしたちはすでに結構な距離を歩いていた。代わり映えのしない薄暗い景色が、真っ黒のローファーと少し汚れたスニーカーのそばをゆっくり流れていく。もうすぐ、ふたりが別れる四つ角が見えるはずだ。そこが、今日のタイムリミット。 「明日のクラスマッチ、応援行きますね」 「いや来なくていいよ、恥ずかしいからさー。俺ラケット競技苦手だし」 「えー、そんなこと言わないで見せてくださいよー」 「よし、じゃあ俺もの応援行く。バレーに出るんだったよな?」 「えっそれは困ります!」 「何でだよ、じゃないと理不尽だろー」 先輩の笑い声が余韻みたいに耳に残る。残すはあと数歩。わたしはもう諦めていた。今日も謝れなかった自己嫌悪でお腹の奥が痛い。いつまでこれが続くんだろう、と先のことを考えて途方に暮れる。もっと近くにいたいのに、先輩に触れられるほど近くまで行きたいのに。そんな気持ちばっかり内側に悶々と抱えて、毎日毎日それを伝えることができずにいる。わたしが一歩を踏み出せば、何かが変わることを悟ってはいるのに。……何やってるの、わたしの意気地なし。 「……」 「は、はい」 「―――な」 そんなことを考えているときにふと、となりで土を踏む音がしなくなった。名前を呼ばれた。いつもより随分畏まった声に肩を揺らす。わたしが咄嗟に返事をすると、横から何かが聞こえた。うまく聞き取れなかったけれど、確かに先輩の声だった。わたしは、顔を上げて何度も瞬きをする。待ってみても続きはなかった。不思議に思いながら先輩の顔を見上げて、わたしははっと息を呑む。 ――きっと先輩は、ごめんな、と言ったんだ。 「じゃあ、また明日な。カメラとか持ってくるのやめろよ」 むこうを向いたまま続けられた声は、いつもの優しい声だった。……でも、顔は。さっきのままなのだろうか。さっきみたいに、まるで自分を責めているような顔をしているんだろうか。思わず握った手に力が入る。だとしたらそのまま帰せるわけがない。謝って、ちゃんと説明しないといけないのはわたしなのに。先輩は何ひとつ悪いところなんかないのに。 わたしは、とっくにむこうへ歩き始めてしまった先輩の背中を必死に追いかける。空気の色と同化しかけている真っ黒な背中が、やけに寂しげに見えた。そこでようやく、時間というのは悪いものをもっと悪くするのにも有効なのだと気付く。わたしはひどく後悔した。大変なものを、熟成してしまった。さっきの先輩の表情がフラッシュバックする。そこにもう崩れかかっている何かの断片が見えた気がして、不安で不安でたまらなかった。余計に離れてしまうかもしれない。手遅れになる前に、今すぐなんとかしなければ。そう焦っているからだろうか、今この背中に向かってなら、ずっとずっと言えなかった”待って”のひとことが言える気がした。 「先輩!待ってください!」 それさえ言えれば、あとは一瞬だった。そこでようやく、こんなに簡単なことだったんだと気づく。毎日の部活で培った自分の脚力が、このときばかりはありがたい。 「え?…っちょ、うわ、!」 ――ここは、どこよりも居心地がいい。 久しぶりに先輩の体温を感じた。体当たりと大差ないほど思いっきり飛び付いた真っ黒のジャージからは、強い汗のにおいがする。やっぱり、先輩も男の人だ。そんなことを思いながら、思ったよりずっと硬い胸に頬を寄せた。同時に、脳裏に残っている先輩の余裕のなさそうな表情を思い出して、身体が熱くなるのを感じる。怖かったのは確かだった。食べられてしまうかもしれない、と馬鹿みたいなことを思ったのだ。でも、心の隅でそうされてみたいとも思った。先輩になら何をされてもいい気がした。そして、できることならわたしも先輩のことを好きにしたいとさえ思ってしまった。 「ちょ、離れて。俺、部活終わりで汗……」 「いいんです」 「いやよくないだろ…!」 わたしを引き剥がそうとする先輩の腕は弱々しくて、強引に力を加えるのを躊躇っているように見えた。やっぱり、先輩は優しい。優しすぎて分かってない。色んな感情がごちゃまぜになった涙が出た。なぜか、肩も震えて止まらない。 そんなわたしの姿を見て、先輩はまたつらそうな顔をする。見覚えのある、半月前とまったく同じ顔だった。わたしはちょっと安心する。ずっとどこかで隠れていたものが、ようやく露わになり始めた気がした。 「…ほら、、無理しなくていいから、」 「無理なんか、してません」 「嘘つくなよ。……俺、を傷つけたくないからさ、」 言葉の続きを遮ったのは、いいんです、というわたしの声だった。耳元で戸惑った声が上がる。先輩にそんなふうに言わせているのは自分だと分かる。あのとき、先輩の唇を咄嗟に拒否したから。そのまま半月も、先輩の中に残ったその見えない傷を放置してしまったから、そこが膿んで膿んで大変なことになっている。傷ついているのは、わたしじゃなくて自分の方なのに、それを先輩は分かっていない。 「もっと、傷つけてください」 わたし、何もかも初めてだけど、先輩にならなんだってあげます。心の準備は十分できました。もう何されたって嫌じゃないし、前みたいに怖がったりなんかしません。多少強引だったって、わたし、そう簡単に壊れたりしませんから。先輩は気なんか使わないでいいんです。好きなようにしていいんです。わたしは、先輩のものですから。その特権が何より嬉しいんです。お願いだから、わたしをこのまま先輩の近くにいさせてください。遠くに行かないで。傷つけるのを怖がって、触れることのできない距離に行かないで。 ……だいぶ、はしたないことを言ったと思う。 言いたいことが多すぎて、そのくせうまくまとめられなくて、結局どこまで伝えられたかは分からない。けれど、縋るように見上げた先輩の顔はさっきと全然違っていて、多少はうまく伝わったみたいで安心する。いつの間にか真っ赤になってくれているのが嬉しくて、わたしはまだ怖いもの見たさで言葉を続けてしまう。 「好きなんです、先輩。だからわたし、もっと先輩に触れたい」 ――先輩でも、こんな顔をするんだと思った。あんなに大人びてて、優しくて、安定した人が、こんな顔。 薄汚れたコンクリートの壁に押し付けられながら、わたしは目の前の人のことを考える。勢いでああは言ってしまったけれど、やっぱり少し怖かった。けれど、願ったものが手に入った満足感の方が何倍も大きかった。辺りはもうとっくに日が落ちていて、近くの街灯はわたしたちが重なる姿をぼんやりと浮かび上がらせる。 誰に見られるかも分からないのに、熱いものに塞がれたわたしの唇は痺れるばかりでぴくりとも動かない。まるで、ここに牙が立てられているようだ、と朦朧とした意識の中でぼんやり思った。 わたしの家はすぐそこだ。 明日、隠れて着替えなきゃいけなかったらどうしよう。 けだものだもの [企画:「かわいくなりたい!」様] title by 依存 |